リスボンレポート 2014年夏 その6【8/29 ファドとギターラ】(最終回)

実質最終日。パレイラは今深夜に出発だと思っていたようで「なんだ、明日の午後発ならまだ電話できるな」と話していました。

洗濯物を干して残った用事と荷造りをあれこれと。ひと通り片付けてからコメルシオ広場~カイス・ド・ソドレー間に完成した遊歩道へ散歩に行くことにしました。
ずっとどこかがリニューアルの工事中だったリスボン。初めて来た大学生のころにはロッシオ広場が工事の幕で囲まれていました。2002年までには地下鉄の青線がサンタ・アポローニアへ延びるはずが完成は2007年。コメルシオ広場から川に出る川岸の工事もなかなか終わらなかったし、数年前はそのコメルシオ広場が幕で覆われていました。
ようやく街全体のリニューアルがだいたい終わり、地下鉄が空港まで延び、公設市場もきれいに建て替えられ、今では川沿いに歩行者天国のような遊歩道ができています。

私が初めてリスボンに来たのは2000年のこと。それゆえに生前のアマーリアもリスボン万博も見ていません。しかしながらファド再興のプロジェクトによって生まれてきた若い奏者たちよりは少し上の世代です。
そういった狭間の世代に身を置きつつ古典曲や昔ながらのスタイルを専門にしているのは、外国人だからこそのことかもしれません。

夕方に預け物と預かり物の用事でVelho Páteo de Sant’Anaへ徒歩で往復。お別れの挨拶も含め1時間半ほど。小さなリスボンの街を上ったり下ったりしながらあちらへこちらへ。

最後の夜はおなじみ「ファドの学校」Fado Maior。日本のファド関係者のほとんどがお世話になったお店。ルイス・デ・カストロ翁と奥様の大ベテランファディスタ ジュリエッタ・エストレーラが経営するファド保守派の最右翼。今では金曜と土曜の夜にしか開けていません。店の詳細は過去のレポート「リスボンレポート2012年春 その5【Alfama】」をご参照ください。

同行のマウロ・ネーヴェスを紹介すると、ジュリエッタが「私たちのポルトガル語を変えてしまったブラジル人が日本でポルトガル語を教えているの?」と絡む。マウロもいやな顔をせず「そうですね。おっしゃる意味はわかります」といなしました。特に険悪な空気ではなく、挨拶がわりといったかんじ。私が昨日アニータ・ゲレイロと話したことを話題にしていたら、今度は「実はアニータは私がプロライセンスを取った際の後見人なのよ」と教えてくれました。独裁政権下ではプロのファディスタは国家資格が必要で、そのための試験に合格するか、特定のコンクールで優勝した場合にライセンスが与えられました。

左からFlorinda Maria、Anita Guerreiro、Julieta Estrela (Rainha das Cantadeirasコンクール 1955年)

左からFlorinda Maria、Anita Guerreiro、Julieta Estrela (Rainha das Cantadeirasコンクール 1955年)

その時の審査員が後見人になる場合が多くあったとのこと。ジュリエッタがコンクールに優勝したのは16歳のころ。その時の審査員がアニータ・ゲレイロで、18歳までは正式なライセンスが公布されないため、2年間は特別なライセンスで歌っていたそうです。
そして超有名曲Cheira a Lisboaはアニータがレヴィスタで歌って有名にしたとのエピソードがおまけで付いてきました。これまでルイスにもジュリエッタにも何度かロングインタビューをお願いしてきましたが、客としてこの店に来ても必ず知識が増えます。

Fado Maiorもギタリスタがバカンスで代役とのこと。この代役が代役とはいえないような人物、Bairro Altoにおける老舗中の老舗Adega Machadoで20年以上弾いていたジョアン・アウベルト翁でした。現役を引退したと聞いていたのですが、後で聞いたら9年半ぶりの現場復帰らしく、貴重な機会にめぐり合えた幸運を感じました。
店の端でルイスがアウベルト氏に「トゥミがいっしょに弾くので了解してくれ」と話してくれていたので私も話に混ざることに。「お前もギターラを弾くのか。最近はパソコンやインターネットで簡単に勉強できるからな」と言うアウベルト氏。ルイスが彼は日本で教則本も出しているし、ファドを理解している。古典曲もパレイラが教え込んでいるから大丈夫だとさらにフォローをしてくれました。アウベルト氏もそれを聞いて「パレイラが教え込んだ弟子なのか。わかった、後で弾きながら話そう」と一応の了解をしてくれました。久々に会ったごりごりの昔かたぎなファド関係者に緊張感を覚えつつわくわくもしました。

ヴィオリスタはおなじみのお爺さまカルロス・ロペス。私がBacalhau à Brazをだいたい食べ終わったころを見計らって「何か弾け」と声をかけてくる。もう少しで食べ終わるから待ってくれと言ったら、ちょうどアウベルト氏がトイレから戻ってきて準備がてらLisboa ao Entardecerを弾きはじめました。私も食事を切り上げて演奏に参加し、適当にセンカンドパートでハモりなんかを入れてみる。じっと自身の手元を見て弾いていたアウベルト氏が弾き終わって話しかけてきました。「俺が現役のころ、教えてくれるギタリスタなんかいなかったんだ。弾いている手を見ようとすると、見せないように横を向いたんだ。だから独学するしかなかった」よく聞く話ではあるのですが、そうなんですかと聞いてばかりも面白くないので「パレイラから、ジャイメ・サントスはそうだったと聞いています。ジュゼ・ヌネスも相手によっては。でもパレイラ自身はジュゼ・ヌネスからもカルヴァリーニョからもフレイタスからも機嫌よく教えてもらったそうですよ」と返すと「ああ、パレイラならそうかもしれないな。さて次はお前の番だ。何か変奏曲を弾いてみてくれ」と促してきました。師とも付き合いが長くなりいろいろわかっているつもりでしたが、他者から人物評を聞くとなんだか新鮮です。
何を弾くか迷っている時間もないので、曲名も言わずにアルマンディーニョの変奏曲をカルロスと顔で合図しながらアドリブを交えて弾きました。同じくアドリブでセカンドパートを弾くアウベルト氏。どうやらご一緒してOKのようです。

真ん中がJoão Alberto氏

真ん中がJoão Alberto氏

「最近の若いギタリスタたちは手元ばっかりチャカチャカしやがって、表現力がないし歌の伴奏になってねーんだ」そんなお決まりの愚痴をアウベルト氏が話したところでファドの時間が始まる。一人目は最近Parreirinha de Alfamaでも歌い始めたおなじみのクララ。イントロの間笑いかけてくれたので、ウィンクを返すとさらに笑っていました。

実際に伴奏をしてみてびっくり。アウベルト氏の手合いの発想が私とそっくり。いやもちろん私が彼に似ているという順序なのですが、手数も入れ込むフレーズの長さもおさめ方も、引き出しにあるお約束のフレーズもかなり似通っていて、3度か4度同じタイミングで全く同じフレーズを弾きました。ギターラがファドの伴奏をする際は全てアドリブで弾くので、これはかなり珍しいことです。パレイラも長くAdega Machadoで弾いた人なので、もしかしてAdega Machadoのオーナーである故アルマンド・マシャードの好む傾向があり、パレイラのそれがまた私に引き継がれたのかもしれません。

驚くとともに、この人は愚痴ではなく本当に最近の弾き手による伴奏が受け入れられないのだなと感じました。アウベルト氏はそのときの歌を聴きながら、そして聴いたうえでフレーズを繰り出します。もちろん自然に、そして自然なサイクルとして。

このときに頭の中で何かがしっくりいった気がしたのですが、日本に帰ってから振り返ってそれが何かわかりました。
私はアウベルト氏の言うように最近の若いギタリスタがダメだとは思っていません。歌の伴奏として的確なことを巧く弾いていると思っていますし、それぞれに表現力も持っていると思います。ただよくわからない違和感も覚えていました。
今回気づいたのは、おそらく若い弾き手たちはファドをアンサンブルと捉えているのではないかということでした。声を楽器と捉えて等価なファディスタ、ギターラ、ヴィオラによる完成されたアンサンブルを美しいと捉えているのであれば、従来のファドを良しとする人との間に感性の齟齬が生まれるのは理解できます。従来の考えであれば、ファドはあくまでも歌の音楽であり、枠をつくるのがヴィオラで、ギターラの役割はいろどりを添えることです。その中でそれぞれが個性をにじませつつ、伴奏隊は歌を聴いてそれに呼応したり加勢したりといった形で手合いをはさむ。私もこちら側の奏者です。ただ、こういった伴奏は今のリスボンではなかなか見られません。どちらが「正しい」というのではなく、現状がクリアに理解できた気がしました。
と同時に、私がリスボンで「最近見ない昔ながらのスタイルのギタリスタだね」とよく言われる理由がようやく自覚できました。今回も、ファディスタが歌を決める際のやり取りを含め、老若のヴィオリスタたちから同じような評価を受けました。

閑話休題。
演奏内でのやり取りの結果か、アウベルト氏がいろいろと話をしてくれるようになりました。私もこれ幸いとアルマンド・マシャードのエピソードを聞いてみることに。一流のヴィオリスタ兼バイシスタでもあったセニョール・マシャードと一緒に弾かれたんですかと聞いたら「彼はあくまでもオーナーだったからそんな機会はほとんどなかったよ。ときどき興がのったときに降りてきて弾いたぐらいかな」とのこと。マシャードの娘でもあり美しい古典ファドFado Maria Ritaの名前の由来にもなったMaria Rita Machadoがどんな人だったか聞いてみたら「すごく太った人だったよ」とだけ。アウベルト氏、もともとネガティブな人なのかもしれません。

そんなやりとりをしていたら、やたらと玄人っぽい中年の男女連れが入ってきて、ファディスタの待機するテーブルに座りました。どうやらルイスの知り合いのようです。ジュリエッタが私のところへ来て「次はトモコに歌ってもらおうかと思ったけど、ちょっとイレギュラーなことが起こったから少し待ってもらえるかしら」と耳元でささやいてゆきました。
やってきた二人、どうやら現場監督であるジュリエッタの予定になかったらしくしかも歌ってみたらあまりうまくなく、そのことをルイスに怒っていました。細かいところまで聞いていたマウロが「怒ってるねー。でもここのお店いいね。お母さんもすごく楽しい人だし」と状況を楽しんでいました。

次は先日Mesa de Fradesの休憩時間に道端でばったり会った青年ブルーノ。彼とも留学時代からの付き合い。あのころ彼はまだ10代だったんじゃなかったか。そのころからFado Maiorを手伝っていました。
最後にクララとFado Pechinchaの掛け合いをして、とても良い空気になって彼のステージは終わり。
休憩中、カルロスが「何か弾けよ。伴奏させろよ」と催促してきます。なので極力古い曲を。すると弾いた後から「今の、誰のなんて曲だっけ」と聞いてきます。表情を変えず「次は?」と促すアウベルト氏。
そんなこんなしていたらジュリエッタの番。古典曲を4曲歌う。その中には昨夜のアントーニオ・ローシャとは全く違った表現のFado Menorも。彼女も76歳になりましたが、場を支配する空気を持った歌は健在です。

最後に店のテーマソングを歌って終わり。またカルロスが何か弾けと催促してくれたので1曲弾いて私も席に戻りました。
すると男性5人組が店に入ってきて、入れたルイスに対してジュリエッタがまた渋い顔。彼らが歌わせてもらおうと来た客ならば長引くなと思って会計を頼みました。実際のところまだまだジュリエッタとルイスに聞きたいことがあったのですが、これも縁かなと思うことにして。
しかし支払う際に「まだ聞きたいことがいくつかあるのだけど、戻ってきていい?」と聞くと「いいわよ。15分後に来なさい」と承諾してくれました。

いったん店を出るときにアウベルト氏が「おい、さっき最後に弾いた変奏曲はなんて曲だ。ジャイメの曲じゃなかったか」と聞いてきたので「Nostalgiaです。おっしゃるとおりジャイメ・サントスの」と答えると、カルロスに「ほら、ジャイメの曲じゃないか」とこの日一番大きな声で話していました。

15分後、田中と店に戻る途中でアウベルト氏たちとすれ違う。さっき見なかった人もいるなと思ったら、今夜彼にギターラを貸していた人だとのこと。なんと引退したこの9年半の間に楽器も人に譲ってしまったそうです。「また来いよ、わかったな」と声をかけてくださって去ってゆきました。

深夜0時すぎ。ひととおり店を片付けたジュリエッタが「あら、トゥミが戻ってきてたなら言ってよ」とルイスに声をかけ、こちらとしては待望の議論開始。内容は中途半端に書くと誤解を生んでしまいかねないので、また改めて。
時計の針が2時をさすころ、だいたいの結論を見て解散。ジュリエッタが「そういえばパレイラの本持ってる?」と聞いてきたので「もちろん!サイン付をもらいましたよ」と答えるとルイスが「トゥミはパレイラの息子なんだから」と挟む。するとジュリエッタは「私もサイン入りを持っているわよ。パレイラの娘じゃないけれど」とまた冗談で締めくくりました(パレイラは67歳)。夜の仕事をしている人とはいえ、84歳と76歳になった夫妻がここまで付き合ってくれたことには感謝しかありません。

アパートに戻り、妻がもう寝ているので小声で先ほどの議論のまとめ。1週間の疲れがピークに達する中、脳が火照るような感覚をもちながら改めて論議。田中も「寝てらんないです。とにかくやらなきゃ」と言い、相当の刺激を受けた様子でした。

11年前、日本に帰る直前にパレイラが「ファドはもう俺たちの時代ではなく、お前や俺の息子たちの時代になった。さびしいけどそれでいい。お前がどんなファドを求めてゆくかはお前が決めればいい」と話しました。20年後私が誰かにそう言えるだけの環境が日本にあればと思いますし、作れたらと思います。

ドバイ周りの21時間後、日本に帰ってからパレイラに電話をすると「無事に帰ったのか。彼女たちもちゃんと一緒に帰ったか?途中でいい男と一緒に逃げられたんじゃないのか?」と笑っていました。


(文責:月本一史 写真:田中智子、Office data palette)

リスボンレポート 2014年夏 その5 【8/28 Grande Fadista アニータ・ゲレイロ】

ブラジルに休暇で帰っていた盟友マウロ・ネーヴェスがリスボンに寄ってから日本へ戻るとのことなので、ホテルのロビーでおちあうことに。上智大学ポルトガル語学科教授で上智ファド会の主宰。そして田中智子の恩師です。以前研究休暇でリスボンに滞在した際、「最後の伝説」アントーニオ・ローシャにファドの歌唱を習っていました。

10年以上の付き合いで頭部もそっくりになってきました。

10年以上の付き合いで頭部もそっくりになってきました。

連れだって、リベルダーデ大通りのAvenida駅近くにあるなじみの食堂へ。しかしここもバカンス中で開いておらず。どうしようかと思っていると、後ろから携帯電話で話しながら歩いてきたスーツの男性が「この先の角を右に曲がってすぐのところにすごく良い食堂があるよ」と我々に告げて追い越してゆきました。ネーヴェスと「店のまわし者かなあ」と疑いつつ歩いてゆくと、その男性は違う酒屋に入ってゆきました。だったら大丈夫かと十字路を右に曲がって件の食堂へ。入って食事をしてみると安くておいしい「当たり」の店でした。
おおむねリスボンの人々は旅人に親切な印象があります。これは学生時代に初めて訪れたときから印象が変わりません。

Mouraria

お疲れのネーヴェスと別れ、我々は市電28番線に乗ってファド4大聖地のひとつMourariaを抜け、アパートのあるこちらも聖地Alfamaへ。帰宅するついででSanta Engrácia教会に寄りました。

Santa Engrácia教会Alfamaの西の玄関がSéなら東の端はこのドーム。サラザール体制のころから国の偉人たちの霊廟となっています。バスコ・ダ・ガマ、ブラジルに「到着」したカブラール、「桂冠詩人」カモンィスといった本物の棺かわからないものからシドニオ・パイス、オスカル・カルモナ、ウンベルト・デルガードなどポルトガル近現代史を学んだものにはグッとくる名前が並びます。

 

その中にもちろんアマーリアのものも。彼女の棺の前にはお花が供えてありました。

 

夜は少しゆっくりめに22:00すぎよりO faiaへ。Lusoとは違うスタンスでバイロ・アウトの盟主に君臨する名店です(過去のレポート参照)。タイミングの関係か、本日の出演者がすごい。若手男子実力ナンバー1のリカルド・リベイロ、前述の「マエストロ」アントーニオ・ローシャ、往年のレヴィスタ(ファド歌劇)スターであるアニータ・ゲレイロ、O Faiaの創設者で偉大なるファディスタ ルッシーリア・ド・カルモからの系譜を受け継ぐ不動の大エースレニータ・ジェンティウとオールスターキャスト。前座なしの4番バッターが並ぶ展開でした。

我々が到着したときには既にマエストロとリカルドのステージは終わっており、アニータから。Fado Sardinhadas、Coimbra、Cheira a Lisboaと歌い盛り上がる。そしてトリのレニータ・ジェンティルもいつもどおり迫力のステージ。出演者が1周したので食事客があらかた帰って2周目に。誰から出てきても贅沢な中、リカルド・リベイロのFado Três Bairrosから。続いてArraial、Fado Albertoと淡々と歌う素晴らしいステージ。しかしながら先ほど入ってきて我々の前で食事をしているポルトガル人客たちがうるさい。リカルドが去ったあとに席を変えてもらえるようお店にお願いし、次のアントーニオ・ローシャのステージは真横で聞くことになりました。Fado Pechincha,Fado Proençaと続き、最後に圧巻の長編Fado Menor。6,7分、8番から9番ある詩を毎番違うメロディーラインで歌う。もちろん即興。全く飽きない。最後の伝説と呼ばれる所以です。

1969年『Plato do Dia』 リスボン市立ファド博物館蔵 (アプリ『ファドの世界へようこそ』より)

インターバルの間に、今回制作したアプリで使用したレヴィスタの写真をタブレットに出しながらアニータと少し話しました。
「ドナ・アニータ、この写真あなたですよね」
「また古い写真を持ってるわね。どうしたのこれ?いつのかしら」
「ファド博物館から借りて、先日出版した自著に掲載したんですよ。1969年の”Prato do Dia”です」
「そう!これマリア・ヴィットーリア劇場よ。さっき歌った”Fado Sardinhadas”がテーマ曲だったの」
「そうなんですか!あなたの曲だったんですね」
マリア・ヴィットーリア劇場はParque de Mayerにあったレヴィスタの最高峰。さすがはエルミーニア・シウヴァと並び称されるレヴィスタの女王。黄金期が始まったのがおよそ80年前で、その終焉が40年前。まだ歴史の証人から直接話を聞けるのもまたファドの面白いところです。

珍しくアニータが2周目のステージに登場。レヴィスタの曲も歌いつつ、古典曲のFado Franklim 4asも混ぜてきました。Fado Franklim 4asといえば、昨年のレポートの最後に書いたテレーザ・タロウカのテーマソング。ふと気になってステージ後にテレーザ・タロウカが最近どうしているか知らないか聞いてみました。するとアニータも知らないとのこと。
「しばらく歌ってないでしょ。魂のある良いファディスタだったのだけど」
人の往来も文化のうち。お世話になった方の中に鬼籍に入られた方もおられます。日本風の言いかたをすると、縁があればまた会えることでしょう。

我々もそろそろお店から引き上げることに。入り口で待機している各位に挨拶をしました。
「ドナ・アニータ、来年も会いに来ますよ」
「来るだけじゃなくて私をトーキョーに連れていってよ(笑)」
早くしないと天国に行っちゃうわよと言いながらガハハと笑う御歳78歳。毎年6月12日夜にあるサント・アントーニオ祭のパレードでも毎年Mercado地区の山車に乗ってはしゃいでいます。昨年ははしゃぎすぎて翌日O Faiaをお休みするお茶目な一面も。P1100484
奥でPCをさわっていたアントーニオ・ローシャがゆっくりとした口調で「また会う日まで」と握手に出てくる。マエストロは一般的な”Tudo bem?”ではなく「ごきげんよう」に似たニュアンスの”Como está”と挨拶をします。

 

Alfamaのアパートまで歩いて帰る途中、知った顔の若いヴィオリスタとすれ違う。私が留学していたころにはほとんどいなかった若いギタリスタやヴィオリスタがこの10年強でずいぶん増えました。これは1998年からファド博物館が中心となって行ってきたファド行政の成功だと思います。その一方で、当然ながらファド黄金期を知る人々は着々と高齢化しています。
レヴィスタの画像を見せながらアニータに「ファドが良かった時代ですね」と聞いた際、彼女は「今も続いているわよ。スタンスがちょっと変わっただけでね」と返してくれました。その懐の深さと誇りを思い返しながらの就寝。この夜もまたスペシャルでした。

リスボンレポート 2014年夏 その4 【8/27 若いファディスタと老ファディスタ】

Costa Capa Rica

Costa Capa Rica

休養日。
妻と田中は近場の海へ、私はファド博物館とアパートを行ったりきたりして仕事を済ませたのちあれこれしてからコロンボショッピングセンターへの流れ。アルマゼン・シアードのfnacになかったCDと自転車用品を探しに。近年の流行に流されてロード自転車をたしなんでいるのですが、ウェアや手袋はたいていリスボンで買ったものを使っています。

まずは先日の電話代の件で学生寮へ顔を出しに。レセプションのパトリシアにアポをとってもらって寮長カタリーナの部屋へ。
彼女が毎年気に入ってくれているというM.T.E.Cファドカレンダーを渡して4,5分話し、次の用へ。パトリシアは息子が10歳になったとのこと。「もうそんなに時間がたったんだね」「ホントにね」てな会話をし、同じくレセプション担当のマブダチであるジョルジュによろしく伝えて欲しいと言って寮を出ました。

コロンボでは昨年購入したCDシリーズで欠番だったものが見つかったので購入し、スポーツ店ではポルトガル国内ブランドのウェアを購入して最上階のフードコートへ。実は昼はバイシャにある馴染みの店でレイタォン(豚の丸焼き)サンドを食べようと思っていたんですが、ここもバカンス中。観光シーズンならではタイミングの合わなさもあります。27_2
フードコートではベタにお米とフライドポテトに牛肉を乗せて目玉焼きを落としたもの(Bitoque)にビールとエスプレッソがついたものを。ふとこれって牛丼に玉子をつけたみたいなもんとちゃうのと思いました。

食べ終わったところでパレイラから電話がかかってきて、ジュンコとトモコはどうしていると聞かれたので「海に行ってるよ」と答えると「ああ、それは大変だ。男をさがしに行ったんだ。もうお前のもとには帰ってこないぞ」と笑う68歳。アレンテージョに帰って声もこころなしかリラックスしていたようです。

ジャージの「BERG」がポルトガル国内メーカー

ジャージの「BERG」がポルトガル国内メーカー

家に帰って購入したサイクルジャージがジュニアサイズだったことに気づいたけれども着られることを確認してから仮眠。起きて少しすると女子2名が無事帰ってきました。

夜はスーパーで鳥の丸焼きを買ってきて、アパートの冷蔵庫に入っていたハバナクラブと合わせてみる。レモンもライムも鳥も、食べるものが本当に安い。複数名で滞在される場合は旅行者向けのアパートをお勧めします。

Traveling to lisbon

airbnb

今夜はアパートから徒歩2分のMesa de Fradesへ。ここ10年ほどで一気に名前を上げたCasa do Fadoです。大きな扉は教会を改装した名残り。時々大物を招聘したり、まだ駆け出しの有望株が出演したり、しかもそれぞれがその夜のステージを1人で勤めるため「外れ」がほとんどありません。その上ライブチャージをとらないスタイルがファド聴きに人気の店です。ファディスタも気取らずデニム姿で歌うこともよくあります。
本日のファディスタはマティルダ・マルサォン。本人に聞いたところCDもまだ出していないとのこと。しかしなかなかの歌いっぷり。同じMesa de Fradesでメジャーデビュー前のカルミーニョを聞いたときと似たような印象を受けました。

Mesa de Frades(ファド入門アプリ「ファドの世界へようこそ」より)

Mesa de Frades(ファド入門アプリ「ファドの世界へようこそ」より)

1本目のステージを終えて常連客の反応も上々。隣で私と同じく立ち見していたAlfama生まれの青年と「いいよねぇー(意訳)」と感想を言い合って意気投合しました。食事に来ていた観光客は休憩に入るとともに去り、我々も次のステージまでいったん店を出ることに。人いきれがすごかったのでリフレッシュがてらにAlfama散歩です。
これまではファド博物館前のシャファリス広場を中心としたエリアがAlfamaにおけるCasa do Fadoの中心でしたが、最近はRua dos Remédiosに曜日限定のFadoo Amador(アマチュア店)が増え、通りを歩くだけで漏れ聞こえてくるいろんなファドを楽しむことができます。我々も今回はこの通り沿いにアパートを借りました。

例のごとく通りで知った顔と挨拶を交わし、またMesa de Fradesへ。奥の席に陣取ってステージを待ちます。1本目で手ごたえをつかんだのか、マティルダも笑顔でタバコを吸っていました。

あらためて店内を眺めると、客席ほぼ中央に10歳前後の少年がギターラを抱えぽろぽろと弾いていました。決して天才少年現るといったわけでなく、とつとつと。それもまた良い雰囲気でした。そこへ遊びに来ていた若手の有望株ヴィオリスタが伴奏をつけます。1曲終わり、客席からも拍手。とても良い雰囲気。すると少年の隣に座っていた老婆が「Fado Carricheをこのキーで弾きなさい」と言う。始まるイントロ、暗くなる照明、老婆が歌いだし空気が集約されてゆく。自然にファドが生まれる素晴らしい時間。曲が終わって拍手がおこり、マティルダも惜しみない拍手。続いてもう1曲。今度はFado Menor do Porto。ほほーと思いつつよく見ると老婆、超有名ファディスタじゃないか。2曲目が終わってもさらに3曲目4曲目と続く。マティルダの顔が徐々に曇りだし、うつむいてしまう。もとより老ファディスタは歌唱力で有名になった人ではなく、最近は「~氏絶賛」というふれこみに名前を貸すことで露出のある人物。歌自体にそれほどスペシャルなものがあるわけでないので、何曲も続くといたたまれない気持ちになってくる。

そばにいたマティルダにそっと聞いてみる。
「歌わないの?」
「知らないわよ(苦笑)」
「たしかに彼女には誰も何も言えないよね」
「(黙ってうなづく)」
これはチャンスかなと思って耳もとインタビューを決行しました。
「どうやってファドを勉強したの?さっきのFado Maria Victóriaなんて実際に歌っている人初めて見たよ。よければ彼女(田中)にも教えてくれない?」
すると急に早口になるマティルダ。
「教えるなんてできないわよ。だって教えてもらったことがないんだもの。とにかくFado Vadioに行って歌いまくったの。『歌えるか?』と聞かれたら歌えなくても歌える顔して歌い続けるの。そうしたらこうなったわ。曲はCDも聴いたけど、Vadioで他の人が歌っていて良いなと思ったのを覚えてレパートリーを増やしたわね」
こういった叩き上げの若手が増えてくれば、従来のファド文化が再評価され保たれてゆくのではないかと思います。

結局老ファディスタは5曲歌って終わり、照明が明るくなる。1ステージつぶされたマティルダは一目散に外へ。1晩を1人で受け持つこの店で若手が歌うというのは相当のチャンスなので、悔しさも推して知るべし。
時間は午前1時半。我々もどっと疲れたのでこれで帰ることに。マティルダは残っていってよと言ってくれたのですが、日本人は寝るのが早いんだよと言って遠慮しました。次回訪れた際、彼女の評価がどうなっているか楽しみです。

リスボンレポート 2014年夏 その3 【8/26 12年ぶりの伴奏】

時差ぼけで一睡もできず、原稿を書きながら夜明けを迎える。リスボンに通い始めて14年、いまだに慣れません。
午前中に仕事の案件を片付け、昼過ぎにはプライベートの用件へ時間を割き、夕方は疲れている田中に無理をお願いしてもうひと案件。内務の一日でした。

せっかくアパートのすぐそばなので日々の挨拶と資料の物色でファド博物館へ。同い年の職員リカルドに「最近どないしてる?」と声をかけたところ、パレイラから博物館をとおして新著の贈呈があるとのこと。受け取りのサインをして帰宅したとたんに携帯電話が鳴る。とってみたらパレイラ。感想を聞く電話でした。

『O Livrodos Fados』著:António Parreira

『O Livrodos Fados』著:António Parreira

『O Livro dos Fados』
古典ファド180曲をまとめた画期的な曲集です。ファド黄金期に演奏をしていた世代には珍しく楽譜の読み書きができるパレイラだからこそできた1冊であり、私が彼と出会った12年前には既に執筆の準備を始めていました。それぞれアドリブによって変化をさせながら歌われることを前提としつつ各曲の代表的なメロディーラインに加え、その間にギターラが入れる手合いの例示も記載されています。
実は私もこの本の中でいくつか、読者にはわからないレベルのお手伝いをしています。
楽譜の写真は各曲作曲者の音楽著作権が関係しますのでご容赦ください。

Café Luso

Café Luso

夜は紆余曲折会ってCafé Lusoへ。昨年のレポートでも書いたクリスティアーノ・デ・ソウザが歌う店です。といった説明も必要のないバイロ・アウト地区の盟主数店のうちのひとつ。ベテラン男性ファディスタで現場責任者のフィリペ・アカーシオは20歳前後の見習い時代に同じく見習いだったパレイラとカスカイスのCasa do Fadoで修行を積んだ人物。パレイラがよろしく言っていたことを伝えると、その店でアウフレッド・マルセネイロやマリア・テレーザ・デ・ノローニャ、ジュゼ・ヌネスといった伝説の面々の付け人をしつつ共演した話をしてくれました。

賛否両論のある劇場のような舞台と音響設備でファドが始まる。客席の照明がおちても団体の外国人観光客は変わらずうるさいまま。ファドのステージと交互に入るフォークダンスは10数年ぶりに見ましたが、それら全てからLusoの早い時間帯の経営方針が感じ取れ、クリスティアーノから「よければ遅い時間に来てくれ」と言われた理由がわかりました。
喧騒の絶えない1周目のトリに出てきたフィリペ・アカーシオの1曲目が『Silêncio(沈黙)』。絶対にわざとである。次に歌った『Coimbra』はテーブルにある白のナフキンを振りながら。おそらく「さっさと帰れ」の意。団体客たちは気づかず喜んで自分たちのテーブルにあるナプキンを振る。

団体客が引け、ファドを演奏する位置が客席内に移る。我々も移動させてもらって、ようやくやってくるファドの時間にそなえます。その間もアカーシオはずっと鼻歌を歌いながら接客しつつ、若い女性客たちに声をかけてまわる。その軽さがなかなかにセクシー。

既知のギタリスタ、サンドロ・コスタから声がかかり演奏へ参加させてもらえることに。1人目の女性ファディスタが1曲目に『Barco Negro』をコール。隣のサンドロがイントロを弾きながら「ファドの時間にファドじゃない曲を歌う気がしれない」と私にささやく。パレイラも全く同じことをよくするので、この曲に対しての印象は世代に関わらないのかとも思いました。いまさらですが、この曲はブラジルの曲です。
後日高柳たくちゃんに聞いた話では、若い伴奏者たちにはこの曲を知らない人も見られるとのこと。時代と世代を考えれば納得のいくところですし、現場で学んだ人材が触れる機会のない曲であるのもたしかです。

2人目はクリスティアーノ。昨年はお互いの日程がうまく合わず共演できなかったので、これが12年ぶりの伴奏です。
当時私は24歳、彼は26歳だったか。クリスティアーノ・デ・ソウザ、マリア・ベンタ、ジュゼ・マヌエウ・バレット、そして土曜の夜にはテレーザ・タロウカというのがVelho Páteo de Sant’Anaのラインナップでした。クリスティアーノも私も見習い。改めてこのことを話すとパレイラは「お前らの関係は俺とフィリペ・アカーシオみたいなもんだ」と言っていました。

アカーシオのステージ。自分の歌うスペースのまん前に机を置き、若い女性客を1人そこに座らせてじっと彼女を見つめながら歌う。1曲終わっても「待って、まだ戻らないで」と言ってもう1曲歌い、3曲目は違う女性を座らせて歌う。その流れ、間、テンポ、スピードが完璧である。

その後客の出入りの関係でステージとステージの間が間延びしてそこそこの時間となり、伴奏隊もうとうと。サンドロも2度ほど寝ながら弾いていました。ファドの伴奏者に必須のスキルです。すると女性ファディスタが「あなたたち眠そうね、私がもっと眠くしてあげる」とスローテンポな曲を3曲続け、追い討ちをかけてきました。

26_3クリスティアーノとサンドロ、そしてアカーシオのはからいで田中も2曲歌わせていただいたあと、アカーシオが「お前ら本当に夢でも見ながら弾いているみたいだな」と言って、先ほど女性客たちを座らせていた席に今度は自分が座り、Fado dos Sonhos(Sonhoは「夢」の意)を静かに歌い始めました。伴奏もそれを追いかけてゆく。伝統的に辣腕をふるう経営陣だけでなくアカーシオの存在がLusoの歴史を支えているのは間違いなさそうです。

帰り際にクリスティアーノへセニョールTのセカンドアルバムと奥さんへのプレゼントを渡し「12年ぶりにお前の伴奏したんだぜ」と言うと「え、そうだっけ?!CDで聴いてたりしたからそんな気していなかったよ」との天然な返答が。悪いことではないように思いました。こんなやり取りがリスボンのファド界隈のあちこちであるのかもしれません。そのうち彼とじっくり共演する機会があればと思います。

Cristiano de Sousaと

Cristiano de Sousaと

リスボンレポート 2014年夏 その2 【8/25 再会多々】

昼着の便で来たためか、もう3,4日経っているように感じる朝。例のごとくあまり眠れませんでしたが、なるべく早い日程で用事を済ませておきたいため弱音も吐いていられません。

昨夜帰宅した後、3ヶ月前からリスボンに滞在しているファディスタのTAKUこと高柳卓也氏(以下たくちゃん)とギタリスタのMASAこと飯泉昌宏氏と連絡が取れ、アパートのすぐ近所でファドを聞いている2人合流することに。飯泉さんとは5年ぶりじゃきかない久しぶりの再会。店に入ったらちょうど日本人の女性ファディスタが歌っているところでした。面識がなかったので始めましてのご挨拶。まだお付き合いがないのでお名前を出すのは控えますが、ご挨拶をさせていただいたところ上品でとても感じのよい印象を受けました。

今日は昼にたくちゃんの盟友ヴィタウ・ダスンサォンがサン・ジョルジュ城の近くで演奏するとのことなので、それを軸にあれやこれや。実はバカンス中の師パレイラと会えるチャンスがあるのは今日と明日だけなので、それもにらみつつ。

同行している妻と田中智子に携帯電話の購入を頼み、午前中私は別行動。振り返ってみれば今日は私よりも田中の日でした。
いったんアパートに戻ってメールをチェックしたら、留学していたときから度々利用している学生寮から返信が届いている。昨年滞在した際日曜出国だったためにオフィスが開いておらず、レセプションの担当者が寮の責任者に電話したところ「来年も来るんでしょ。そのときでいいわよ」との返答を受けていました。なので今回「払いに行きたいので金額を教えてください」と送ったところへの返信。「そんなこと言ったの忘れちゃったわよテヘペロ 良い滞在と良い調査ができますように(意訳)」と書いてありました。明日何かお土産を持っていこうと思います。

25_01待ち合わせ時間の3時を目指して坂を上り散々道に迷った末、ようやく目的のお店A Tasquinhaに到着。ヴィタウに挨拶をして、秋の来日ツアーの中でうちの事務所が請け負っている大阪公演と朝日カルチャーセンターでの講座の話になりました。

Vítal d'Assunçãoの話を聞く田中と月本

Vítal d’Assunçãoの話を聞く田中と月本

ことあるごとに書いていますが、ヴィタウは本当に生き字引的にファドのことを知っており、しかもわからないことや検証のしようのないことにははっきりとそのように答え、持論の部分は持論であると前置きするフェアな人物です。市井の研究家としてもファドに関わっている者としては、彼との縁をつないでくれたたくちゃんに感謝のしようもありません。

たくちゃんや飯泉さんが到着して少ししたころ、パレイラから携帯に電話が。ファド博物館へ続く通りに入ったとの連絡。失礼を承知で中座し、一気に石畳の丘を駆け下りました。しかしパレイラ来ない。おかしいので電話したみたところ「もうちょっと」という出前の「今出ました」的返事。そう、ここはポルトガルでした。

本日月曜休館のファド博物館前で40分待ってパレイラ到着。まずは父子の抱擁から。そして「ちょっと薬局行くからついてきてくれ」と言われ、あれこれ話しながら歩く。いつもVelho Páteo de Sant’Anaの演奏前に2人で近所をぐるっと回る散歩の代わりでした。
約束どおり、そして毎年のとおり彼から楽器を借り、ついでで先ほどの店まで車で送ってもらうことに。

師であり「父」António Parreiraと

師であり「父」António Parreiraと

私がよく使う引用に「相手に対してどれだけ時間を使えるかが愛情の深さである」というのがありますが、リスボンで「父」と時間を過ごすたびにそれを実感します。

駐車場所の関係で店から少し離れたところで妻と田中智子がパレイラと抱擁を交わす。聞けば私が中座している間にヴィタウとたくちゃんのはからいで田中が歌わせてもらったとのこと。ありがたい限りです。パレイラを見送ってから店に戻りヴィタウに感謝を述べると、田中の歌の課題点を挙げてくれました。

アレンテージョ会館

アレンテージョ会館

Alfama西の玄関Sé

Alfama西の玄関Sé

ジンジーニャ

ジンジーニャ

夜はアレンテージョ会館で夕食を済ませ、ジンジーニャで一杯ひっかけてからファド博物館前のシャファリス広場に集合してたくちゃん引率のAlfama散策。角々で声をかけられ「2曲ぐらい歌っていけ」となる彼は、界隈で本当に愛されています。

最終的にサント・エステヴァォン教会の裏手にある店に腰を落ち着け、ファドを楽しむ。
伴奏者はギタリスタもヴィオリスタも若いのですが、安心感のある演奏をする弾き手でした。

代表的な古典ファド、Fado Cravoのイントロがながれた瞬間に空気がしまる。古典ファドの中でも古いファド(と言っても80年ほどだけど)の持つパワーというのは確実にあります。古いからというのではなくそういった力のあるものが残りそれ以外は淘汰されたとも解釈できますし、また聴く側の経験や記憶からくる反射的な反応とも解釈できるので、実際のところはわかりません。ただ、場を支配する何かは存在します。

ひとステージ終わって休憩に入ったところでギタリスタに次から入るかと誘っていただく。ありがたく加わらせてもらうことにして、コミュニケーションがてらのファド談義。主に変奏曲のレパートリーに何をもっているかや、歴史に残る奏者たちについて、またあの著名なファディスタはこの曲をこの詩でこう歌っていたなどなど。
伴奏者同士で理解したり理解してもらったりする要素にはテクニックや表現力などのいわゆる演奏力と、覚えている歌の曲数がどれだけあるかというのも当然重要ですが、ファドの場合それと同じぐらいどれだけファドに対する知識と見識を持っているかという点もキーになるということをこの10年強で経験則として学びました。特に私のような外国人にとってこういった初めての演奏前のコミュニケーションは、実はそれをはかられる場。質問や自らの考察を交えつつ慎重に進めます。

そんなこんなしていると飯泉さんが到着して合流。ギターラ3台体制になりました。

歌い終わった田中が「歌わせてもらっちゃっていいんですかねえ」と言う。
12年前に私が留学 3ヶ月目でまだまだ何もわからないまま師匠の横に椅子を用意されてCasa do Fadoで弾かされ始めたころとは比べ物にならないぐらい彼女は歌えるしわけもわかっているのですが、当時弾き始めて2日目に「どの曲もちゃんと弾けるようになってから店で弾きたいです」と私が言った際師匠やファディスタたちから「それはいつだ。お前はそういうふうに言ったままそのままで留学を終えて日本に帰る気か」と叱られたことを思い出しました。ファドが「習うより慣れろ」の文化であることのあらわれかなと思います。

帰ったら午前3時前。時差ぼけと、急にいろいろな思い出が頭をよぎることのダブルパンチで全く寝付けませんでした。

リスボンレポート 2014年夏 その1 【8/24 リスボン着】

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ドバイを経由して到着したリスボンは30℃に満たない気温、湿気のない気候でとても過ごしやすく、夏にヨーロッパだけでなく世界中から観光客が集まるのが納得のいくところでした。

毎年書いているような気がしますが、リスボンへ来るたび着実に時間は経って人は歳をとるものだと再認識します。

このレポートを始めて3年目となる今回は、カテゴリー別ではなく時系列で1日ずつ追っての日記形式にしようと考えています。故に、全体的に私的な内容が含まれますが、その点はご容赦願えますと幸いです。

 

アパートから通りを見下ろす

アパートから通りを見下ろす

Alfamaのアパートに到着して荷解きをし、初日の晩はいつもどおり、留学時代師匠パレイラに連れられて修行をしていたVelho Páteo de Sant’Anaへ。
オーナーはリナ・フェレイラ婦人。店に入って彼女を探したところ先にご主人と会いました。
「トゥミ(私のファド界隈での愛称)、太ったとか背が伸びたとかは聞くが、ハゲたは初めてだ(笑)。お前もいい年になってきたんだな。ようこそリスボンへ」
そんなおちゃめな挨拶で迎えてくれました。
テーブルへ案内してもらう途中でリナ婦人を見つけたご主人が「リナ、カレッカが来たぞ(笑)」(※カレッカ=ハゲ)とかぶせる始末。おかげでポルトガル語のリスニング感覚が一気に戻りました。

カタプラーナ鍋を頼んでファドを待つ。前もって聞いていたとおり師匠たちはバカンス(私のリスボン滞在を9月だと勘違いしていたそうで…)でお休み。代役は以前他所で知り合っていた銀髪の色男ゼ・カストロと若いルイス・ギマランィス。ギターラのゼはずいぶん久しぶり。彼もたくちゃんことファディスタの高柳卓也氏と親交のある人物です。ますます中年の渋さに磨きがかかっていました。ヴィオラのルイスはアジアの血が入ったテンションの高い青年。センスと若い奏者特有の良い危うさ、そして案外全体を見渡す視野をもった有望株です。歴史的な伴奏者たちにも、代役からキャリアアップしていったケースがたくさんあります。そしてもう一人女性ヴィオリスタのクリスティーナの3名が伴奏隊。クリスティーナはインテリジェンスを感じさせる穏やかな人物です。夫はアマチュアのファディスタ(ファド歌手)。先日「CDを作ったから」と日本に送ってくれました。

本日のファディスタは全体的に若めのラインナップ。始めにヴィオリスタのルイスがFado Menor、Fado Pedro Rodrigues、Fado Pechinchaと古典ファドの中でもプリミティヴなものを歌い、トップバッターの女性ファディスタ カリーナが登場。彼女のファドを聴くのは客として伴奏者として何度目かでしたが、相変わらず丁寧な歌い口でした。
2人目は今回始めましての男性ファディスタ、ルイ。声につやのあるソフトな歌声が魅力的でした。マルシャが得意なところを見ると、劇場歌手との兼業かもしれません。
実質のトリである3人目はおなじみジョアナ。あのころは楽屋で大学のレポートに追われていた彼女もすっかり貫禄めいたものがついてきました。イタリア人、スペイン人、ドイツ人、韓国人、日本人といる観光客のためにいくつかの言語で口上を述べ、我々の日本人テーブルに向けて英語で話している途中目があって「びっくりするじゃない!?来てたの?」と素になる彼女。蓋を開ければまだかわいげの残る若手ファディスタです。

Casa do Fado "Velho Páteo de Sant'Ana"

Casa do Fado “Velho Páteo de Sant’Ana”

ジョアナのステージ後にリナ婦人がやってきて「ゼがギターラを貸してくれるって言ってるからギタラーダ(器楽曲)と私の伴奏を1曲づつ弾いていきなさい」とのありがたい提案をくれました。お言葉に甘えて計2曲の演奏に参加し終えたところ、様子がおかしい。ゼが来ない。そのことを言う前にリナ婦人が次の曲名の宣言(ファドはファディスタがその場で歌う曲を決める)。伴奏をしたことのない曲だけど、ルイスの助けを借りながらアドリブで乗り切る。すると店の名物グランドフィナーレに向けてファディスタが一人ひとり加わってゆき、私も抜け出せない状況に。
とにかくひととおり終わった後、ゼが気を悪くしていたらいけないと思ってファディスタたちとの会話をそこそこに楽屋へ。ゼに感謝と謝罪をすると、あともお前が弾けとの返答。これはいよいよまずいぞと思っていたら、ルイスを交えた会話の中で実はゼが体調をくずしているということがわかり、ゼもオーナーに「もし明日トゥミが空いてたら彼に代わってもらえないか」と話していました。先ほどまでの演奏に彼独特の覇気が感じられなかった理由はそのためでした。無論短期滞在で私も空いておらず。「久しぶりに会ったんだから、私はあなたの演奏が聞きたいんですよ。今日はFado Zé Ninguémを弾き語りしないんですか」と伝えてテーブルへ戻りました。

次のステージ、伴奏者の椅子に座りつつ、小声でこちらに「おい、仕事だぞ!おまえこっちに来て弾け!」といたずらっぽく笑うゼの姿が。立ち上がって椅子に片足をかけてFado Zé Ninguémを歌ってくれ、こちらは心が軽く。異国とはいえやはり人付き合いの中で続いている私の仕事です。ホッとしました。

帰りのタクシーの中、私が毎日通っていたころのファディスタたちを思い出し、このままジョアナが安定感を増して居座ってくれれば当時「無休の門番」的存在だった故マリア・ベンタのようになるかもしないし、ルイも同じソフトで声が抜群に良いジュゼ・マヌエウ・バレットのようにこの店を支えてゆくのかもなといったことが頭をよぎって不思議な気持ちに。ジュゼ・マヌエウはかつての人気劇場歌手ですし、ジョアナが各国語で口上を述べた姿はマリア・ベンタそっくりでした。

今後もリスボンへ来るたびに立ち寄ろうと思います。

リスボンレポート 2013年6月 その8(最終回) 【Teresa Taroucaの受勲とCafé LusoのCristiano】

 今回も最後にごく個人的な話を。

 今までまったく縁がなかったんですが、今回いろんな流れから引き寄せられるように名門Casa do FadoであるCafé Lusoにたびたびお邪魔しました。きっかけは、留学時代の年末に師匠に初めて連れられて、Velho Páteo de Sant’Anaで二夜だけ伴奏したCristiano de Sousaが歌っているというので会いたくて。Cristianoは当時26歳で私は24歳。そのしばらく前から歌っていたみたいなのですが、そのニ夜目がちょうど彼の引退日だったようでした。男前だし歌は上手いし、当時16歳だったRicardo Parreiraの面倒見も良いし、ちょっとチャラいけどいいやつだなと思ったのが第一印象。私がヴィオラでクラプトンの『Tears in Heven』を弾いたら歌ってくれて、Ricardoが「それずっと弾きたかったんだ教えてくれよ」と言うみたいな風景。奥さんが穏やかで素敵な人だったのも印象に残りました。彼のFado Três Bairrosは白眉で、将来日本に呼ぶなら彼だななんてことを妄想したものでした。しかし年が明けたら彼はもうおらず、実に残念に思いながら、この10年半の間は想えど届かぬ思い出として自分の中で処理していました。

 彼がLusoで歌っていると聞いたのは3,4年ほど前。師匠がこそっと教えてくれました。それ以来会いたいと思うもののどうも一歩が踏み出せず、時間が経ってしまいました。
 そんなこんなしていたらfacebookでヴィオリスタのCarlos Manuel ProençaがCristianoの投稿をシェアしたところからつながり、メッセージを送りあうようになりました。もちろんFado Três Bairrosの話もしつつ。
 そして今回。まずO Faiaの帰りに立ち寄ったんですが、ちょうどご飯に出ていて会えず。伝言だけ頼んで帰りました。すると「水曜以外ならいるからまた来て欲しい」とfacebookにメッセージが届いていました。

 後日Tasca de XicoのBairro Alto店の帰りに寄ったらまたご飯に出ている。今度こそはと思って待たせてもらうと彼が帰ってきました。10年半ずっと抱えていた想いがあふれだして、みたいなことではなく、お互いに淡々と噛みしめるような再会。残念ながらもう閉店で歌わないとのことなので、一通り同僚と店のオーナー等などを紹介してもらい、また時間を作って来れるよう努力するよと約束しました。無理ならまた来年必ず来るから歌い続けておいてくれよ、と。

 遅ればせながらCafé Lusoの紹介をすると、Bairro Altoの北の端にあり、古めかしいフォントでデザインされた大きな看板がおなじみのシンボリックな店。ガイドブックにも必ず載っています。古くはリベルダーデ大通りにあり、Amália Rodriguesの名盤「Café LusoのAmália Rodrigues」はそちらで収録されました。
その後経営が元のオーナーの親戚筋に移り場所も引っ越して、今に至ります。趣向が凝らされた店内に賛否両論ある舞台と音響設備を使う日もあれば、他のCasa do Fado同様客席で演奏することもあります。
 現オーナーはかなりのやり手で、いったん店をたたんだこちらも名門Adega Machadoを買い取って再開させたとのことです。

 さて、また別の日に用事の後23時半ごろLusoに行ったらちょうどいました。先日渡し忘れた私のCDと奥さんへのプレゼントを渡しつつ、明日時間ができたから来るよと伝えると、明日はアルマダのコンサートにメインで出演するからここには来ないんだとこれまたすれ違いの展開。俺の出番があるかわからないけど次に歌う子がうまいからとりあえず中に入って聞いていってくれと言ってくれたので、お言葉に甘えることに。入ってみたら先日Neloで会ったLuísの義兄Sandro Costaがいて、弟から聞いているよとお互いに。彼の楽器を借りて控えスペースで伴奏隊と遊んでいたら、Luísが顔を出しに来て、Tumi(リスボンのファド界隈での私の呼び名)何で今日楽器を持ってきていないんだと無茶な話に。そして話の流れで、翌日LusoでSandroと一緒に弾くこととなりました。有名店でもわりとこんなノリだったりします。

 Cristianoとはいくつか思い出話。私の「母」である故Maria Bentaが実にエネルギーにあふれる人であったということとか、当時Cristianoがかけてくれた言葉のこととか、彼の奥さんのこととか。そしてTeresa Taroucaのこととか。

 Teresa Taroucaはファド黄金時代末期にFernanda Mariaと並んで活躍した大物ファディスタ。昔のステージ写真なんか、見入ってしまうぐらいの美人です。ファドの歴史書ではAmáliaと一緒に語られることの多いMaria Teresa de Noronhaの姪にあたり、同様に古典を得意としていました。
 留学していた頃は毎週土曜にVelho Páteo de Sant’Anaに出演しており、私が古典の専門家になったのは師Parreiraだけではなく彼女の歌う古典をそばで聞き続けたことの影響も大きくあります。
 初めの頃は「何で東洋人がいるのよ」という態度で、師匠が「お前Teresa Taroucaを知らないのか?それは絶対に言うなよ」と言ってきたことからも大物なのだろうと思いましたが、深くて暗い目をした人だなあというのが印象としては強く残りました。
 転機はたしか3つ。1度目は彼女が歌うときに持っていった水を忘れて戻ったときに「ドナ・テレーザ、お忘れでしたよ」と私が楽屋にもって帰ったこと。2度目は「私はFado Castiço(古典ファド)がとても好きです。なぜなら」「ああ、Parreiraの弟子だからでしょ」「いえ、あなたのそばでいつも聴いているからです」といった会話。3度目は私が肺気胸でリスボンの病院に入院、手術をしたこと。彼女自身も10代の頃気胸を経験したそうで、入院中毎晩祈ってくれていたと師匠から聞きました。そのお礼を言おうとすると「礼は言わないで。私は私があなたに帰ってきて欲しいから神様に祈ったの。これは私と神様の関係だから」とのこと。信仰の深淵に触れた気がしました。
 留学から帰る最後の晩、非番なのに鮮やかなターコイズブルーのパンツスーツで歌いに来てくれたことは記憶から消えません。
 しかしそんな彼女も私が去って1年経つころには引退し、あまり人と交流を持たなくなったそうです。以後、とても会いたいと思い続けていましたし、ある程度演奏できるようになったことを伴奏で伝えたいと思っていたんですが、何度かあった会うチャンスもアクシデントで立ち消えになってしまいました。
 そしてこれまたfacebook。彼女のページがあったので登録していたら、6月10日のポルトガルの日に大統領から勲章を受けるとのニュースが。TVで見た彼女は確かに歳を重ね足元も不安な様子でしたが、一瞬見せた笑顔にたまらない気持ちになりました。(受勲シーンはこちら

 話は戻ってまたLuso。Cristianoの言っていたファディスタの出番の直前、彼が来て「オーナーに言って歌わせてもらえることになったよ。すぐ帰らないといけないから1曲だけだけど、聴いていってくれるか」と言って歌うスペースへ向かいました。特徴的なイントロですぐにFado Três Bairrosとわかったその瞬間、一言「Tumi」と言って手を挙げてから歌いだす彼。あとは推して知るべし。歌詞はCamanéが歌って有名になり若いファディスタがお決まりのようによく歌う『Se ao menos houvesse um dia』ではなく、Maria Bentaがよく歌っていた『Sem fé』でした。

 後日談のような翌日の話。初めからいるのもお店に悪いので(観光客の団体がいる場合が多いため営業的な意味で)、ゆっくりめに行くとちょうど1周目が終わったところ。昔うちの師匠がセニョールファディスタAlfredo Marceneiroの運転手兼伴奏者として出演していたカスカイスの店で一緒だったマブダチFilipe Acácioが「中はちょっとごちゃごちゃするから外で待っとけ」と言うので表にいると、まずいたのが先日Fado in Ciadoにも出演していたAndré Vaz。続いてカフェから帰ってきたSandro Costa。そして向こうから歩いてくる見なれた顔は、旧知の歌手Liana。彼氏と手をつないでやってきました。あっという間に薄れゆくアウェイ感。

Café Luso前で待っている際のあざとい1枚

Café Luso前で待っている際のあざとい1枚(撮影:田中智子)


 時間が来て中に入っても、他の出演者や店員さんたちは先日Cristianoが紹介してくれたおかげでウェルカム。昨日少し古典ファドに関する会話を交わしていたのも良かったようで、歌う際にもこちらに気を遣うことのない選曲をしてくれました。
 私の入った2周目のラストステージ間際、これまた見知った顔。Velho Páteo de Sant’Anaでレギュラー出演している若いJoanaが控えスペースにひょっこり。歌うのかと聞くと友達のファディスタに会いに来ただけとのこと。さらに緩む緊張感。
 しかしJoana、次のステージでその友人の歌での誘い水にのって3人の合唱に参加する。こう並ぶとJoanaは美人なんだなあなんて思いながら弾いていたらあっという間にステージが終了。彼女がもっとガキっぽかった学生の頃から知っていますので、そういった目で見たことがありませんでした。

 合唱でその夜は終わり。私は早めにみんなに挨拶をしてVítal de Assunçãoに教授願うべく午前2時開店のNeloへ向かいました。次回リスボンへ来た際には、Cristianoとの共演が楽しみです。

文責:1°(月本一史)

リスボンレポート 2013年6月 その7 【Santo António祭とMarcha】

 いまさらですが、6月リスボンは13日のSanto António祭を中心としてひと月丸々お祭りです。当然ながら街は浮かれムード。飾り付けをかわいいととるか、ちゃちだととるか、日本人の意見は様々です。
Festa02

 数年前からこの時期の名物であるイワシをモチーフにしたイラストが公募され、街中に飾られます(バスや路面電車にも!)。ちなみにケーブルカーはアズレージョや石畳のデザインにラッピングされていました

 特にAlfamaはさすがSanto António教会のお膝元ということもあり、また後述のMarchas popularesの強豪ということもあり、連日連夜大盛り上がり。イワシを焼く煙と匂いが路地を覆っていました

Alfama

marchaに備えるAlfama

 12日の夜にはお待ちかねのMarchas populares(マーチ大会)です。リベルダーデ大通りを各地区のマーチ隊が演技をしながらねり歩きます。いくつかある審査員席前でいったん止まって演技をし、また次の審査員席前まで移動。私はちょうどその中間で観ていました

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スタート直前


Mercados地区…だったと思います。

Mercados地区…だったと思います


 好みだったのはBairro Alto地区。
Bairro Alto地区のmarcha

Bairro Alto地区のmarcha

衣装も大道具も凝っていて一番かわいく感じました。あと楽しかったのはMercados地区。マーチ隊の最後尾で山車に乗っていたのはファディスタのAnita Guerreiro。おばあちゃん大はしゃぎ
このためかはわかりませんが、彼女は翌日O Faiaをお休みしていました。
 また、今年は日本の団体も招待され、大分の立命館アジア太平洋大学のチームが「ラッセラー」とねり歩いていました。

 マーチは深夜まで続き、そしてお祭りは夜通し続き、特にAlfamaの路地には人があふれかえって通れないほどになります。今年も明け方まであちらこちらで太鼓の音が響いていました。

今年の順位はこちら

リスボンレポート 2013年6月 その6 【ポルトガルに見る日本のオタク文化】

 フランスのジャパンエキスポに関する情報を見ればわかるとおり、近年ヨーロッパでも日本文化、特に日本のオタク文化が人気を博しています。それはポルトガルも例外ではなく、リスボンにもオタク系ショップがあるとのことなので取材に行ってきました。

 お店の名前は「Tsubaki」。地下鉄緑線のRoma駅より徒歩5分。国鉄Roma-Areeiro駅前の公園沿いにあります。昼休みが明ける15時まで公園のベンチでゆっくりすることにしました。U字型になっている公園に置かれたいくつかのベンチには、親子連れやカップルが座っています。
オタク系ショップTsubaki
住所:Praça Afrânio Peixoto, Nº 13 A 1000-009 Lisboa
ショップサイト:Tsubaki

 やがて1台の車がやってきて若い男女が降り、Tsubakiのドアの鍵を開けました。すると先ほどまでベンチでくつろいでいた親子連れやカップルがこぞって店の前へ移動。みんな開店を待っていたファンでした。

 おずおずとお店に入ってみると、店内は8畳ぐらいの手ぜまな空間。その壁面の棚には日本のアニメのフィギュアやねんどろいど、さらにはリラックマのぬいぐるみなどなど。前もっての予想ではドラゴンボールやナルト、ワンピースあたりのものばかり置いてあるんだろうなと思っていたんですが、意外にもここ2、3年のうちに放送されたアニメのグッズが販売されていました。
Tsubaki02

Tsubaki03

Tsubaki04

 店員さんに「日本にこの店の様子を紹介したいんだけど写真を撮ってもいいかな?」と聞くと快諾してショップカードをくれました。加えて「日本のアニメ監督たちに我々のリスペクトの気持ちを伝えて欲しい」と頼まれましたが、そんなつてがあるわけでもないので、twitterで何人かに伝えてみるよと答えておきました。
 そうこうしているうちに店内でWii大会が始まったので、早々に引き上げました。私の世代にはなんとなく懐かしい光景。

 どうやらコスプレが人気なのはロシアやフランスと同じ傾向。ヨーロッパではこのジャンルに限らず何事も愛でるよりも自らがそのものになるという文化なのかもと感じました。
 また、日曜にはリスボン大学の体育館でイベントがあるとのことなので向かいましたが、こちらは満員で入れず。駅から会場までの道のりで、いろんな忍者や魔法少女とすれ違いました。写真はどれを撮って良いのかわからなかったので結局撮らず。

Tsubaki05

 日本ではよく指針のわからない「クールジャパン」が政府によって声高に叫ばれていますが、アメリカやフランスだけでなくその他のヨーロッパ諸国へのアプローチもあって良いのではないかと思います。

リスボンレポート 2013年6月 その5 【Casa do FadoはしごシリーズAlfama編】

Fado Maior
 はしごシリーズ最終日はAlfama編。なじみのFado Maiorへ。内容に関しては昨年のレポートを参照していただくとして、今年はなぜかLuís de Castro会長が妙にじゃれてくる。同行者に「こいつは悪いやつだ。すごく悪い男だよ」とけしかけてきたので「あなたを見習ってね」と返すと、「俺は評論家だから歌わないし弾かないよ。でもお前はファドを知っているしファドを弾ける。俺を見習って歳をとった男はファドを知っていたとしても弾けるようにはならないよ」とほめているんだかなんなんだか。あと「お前、昔の写真じゃ髪の毛あるのにな」とか。10年経てばそうもなります。最後に「次に会うときには髪の毛全部なくなってるかもな」と言われたのは、そうなる前に小まめに会いに来いということなのかもしれません。

住所:Largo do Peneireiro,7

Mesa de Frades
 次に向かったのはMesa de Frades。小さな教会を改修した新しい店で、ここ数年出演者の豪華さと、それなのに高級店ではないということで知られています。着いた時には演奏中。入り口の大きな扉のすぐ中で演奏するので、歌がいったん終わった際に外にいるスタッフが明かりの点滅で客が来たことを中に知らせ、出演者の間をすみませーんと通って入店します。
 この日歌っていたのはJoão Braga御大。歌が実にソフト。立ち見をした後ろにいた玄人っぽい女子に「彼はもう”Arraial”歌った?」と聞くと「まだ」と。重ねて「”Embuçado”は?」と聞いたら「それもまだ。あなたリクエストしなさいよ」と言われましたが、さすがにそれはやめときました。私が入ってから4曲で終わったので、客席にいた顔見知りたちに会釈をして次へ。時期的にコンサートイベントが多いので、伴奏者がスペシャルではなかったのが残念でした。これまではこの店で、ファディスタならCarminho、ギタリスタはRicardo Rocha、Ricardo Parreira、Ângelo Freire、ヴィオリスタはJaime Santos Jr.なんかを聴きました。

住所:Rua dos Remedios 139a

Tasca de Xico Alfama店
 最後のダメ押しでTasca de XicoのAlfama店へ。Bairro Altoで人気店になったFado Vadioの支店です。ギタリスタはFlávio Cardoso、ヴィオリスタはその息子。父ギタリスタ、子ヴィオリスタというのは昔からよくあるパターンで、先ほどから話題に上がっているJaime Santos親子、そしてFrancisco CarvalhinhoとJosé António Carvalhinhoの親子などが有名です。そのためか、同じ楽器同士はひと世代飛ばした祖父と孫の関係がよく見られます。
 Velho Páteo de Sant’Anaにもちょいちょい出演している美人ファディスタMaria Emilia ReisがFlávio息子とじゃれているのになごみながら引き上げました。だいたい2時半ごろ。帰り道はまだまだお祭りの最中で盛り上がっていました。

住所:Rua dos Remédios 83

リスボンレポート 2013年6月 その4 【Casa do Fadoはしごシリーズ 周辺編】

Sr.Vinho
 はしご2日目。まずは良くも悪くもいろんな話を聞く高級店Sr.Vinho。そもそもは男性ファディスタのRodrigoとギタリスタAntónio Chainhoが共同経営するところから始まり、今はこれまたいろんな話を聞く女性ファディスタMaria da Féがオーナーを務めています。
 入ってみたら師パレイラの長男で私の「兄」Paulo Parreiraの奥さんがホールの取り仕切りをしていてびっくり。なるほどここで知り合ったのね。この店のレギュラー伴奏者は彼です。「あら、アレンテージョで会って以来ね。でも残念、旦那はポルトへCamanéの伴奏に行ってて今日はいないのよ」とのこと。彼の伴奏を聴きたくてきたというのも多分にありますので、実に残念。
 歌手は女性3名、男性1名、その後トリで女性1名。もちろんいづれも実力を備えたFadistaたち。Maria da Féは出演せず、店のオペレーションをしつつ、ファドの際は後ろで眼鏡を光らせていました。私の席からよく見えたのですが、2人目の歌手が3曲で上がろうとしたら「客を温められていないからもう一曲歌うように伝えて」とボーイさんを伝令に出し、”Marcha dos Centenários”を歌わせていました。とりあえず恐い。ファディスタたち(特に女性)も手抜きなく歌っている印象。1人目の子は1周目はガチガチで、2周目になってMaria da Féの目がなくなるとリラックスして歌っているように見受けられました。
 しかし、女性は全員ステージングが大きい。どこかで観た感じだと思ったらMaria da Féのそれ。いろんな関係者が「Sr.Vinhoは小さなMaria da Féが何人も出てきて、最後にMaria da Féが登場する店だよ」と言っていたことを思い出しました。30代後半より上の人にわかりやすく言うと、カプセル怪獣的な感じです。

住所:Rua do Meio à Lapa 18
(写真及び予約はリンク先をご覧ください)

Nelo
 「いいものを見た」と玄人ぶった喜びかたをしながら次は午前2時開店のNelo。Fado Vadioなので私も楽器を持って行きました。
 Neloは男性ファディスタ高柳卓也(以下「たくちゃん」)なじみの店で、実は私自身留学をしていた11年前から師匠に「ここは2時からやってるんだぜ」と言われてずっと気になっていました。
 店のオーナーはそのまんま通称Nelo。切り盛りするのはその奥様。ロシア出身とのこと。そしてファドの現場責任者はたくちゃんの盟友にして伝説のヴィオリスタMartinho de Assunçãoの孫Vítal de Assunção。1年ぶりですねとの挨拶を済ませた後、ファドが始まるまでしばらく楽器だけで遊ぶ。せっかくなので彼のおじいさんと黄金コンビを形成していたFransisco Carvalhinhoの変奏曲をいくつか。その後も1時間ほどそのまま弾いていてネタに尽きたので、作曲者がビッグネームのわりにはこちらでもほとんど知る人のいないJaime Santosの変奏曲を弾きはじめると、一緒に弾いていたギタリスタのJoãoが「本当にJaime Santosか?聞いたことねーぞ」と。そこでVítalが「こいつら日本人と付き合ってるとこれが面白いんだよ」とニヤリ。そこから、今は客どころかファディスタでさえ伴奏者の名前を覚えていないということを熱をこめて語りだしました。
 しばらくしてファドが始まったのが3時半。集まった客がみんな順番に歌ってゆく中、エキゾチックな顔立ちの若い男性が現れる。妙にテンションの高い彼は、先祖に中国とアンゴラの血をもつというLuís。ヴィオラを弾いたり歌ったりした彼の義理の兄はCafé Lusoでギタリスタを務めるSandro Costaとのこと。Lusoで歌っているCristiano de Sousaは昔馴染みなんだと伝えると、兄貴に話を通しておくよと言ってくれました。
 店を出るとスズメの声。なかなかの経験をしました。
 しかし、誰も「なぜ日本人なのに~」といったことを聞いてこないのは、たくちゃんが彼らに愛された結果なのだろうなと、彼の人柄に感謝するばかりです。

リスボンレポート 2013年6月 その3 【Casa do FadoはしごシリーズBairro Alto編】

Fado in Ciado
 近年オープンした、ファドのプレゼンテーション的な劇場コンサートです。19時開演と早い時間に開演しますし、飲食もないので「とりあえずファドがどんな音楽なのか知りたい」という方にはちょうど良いかもしれません。
 概ね若い出演者がCasa do Fadoへの出勤前に出演する形をとっており、今回は女性がMafalda Tabordaで男性がAndré Vaz、伴奏はO FaiaのコンビFernando SilvaとPaulo Ramosでした。実はAndré Vazとは前日に共演したばかり。うっかり最前列に座ってしまったばっかりにちらちら目が合ってしまう。よもや人生で初めてウィンクを交わす相手がメンズになるとは思いませんでした。
 曲目は意外なことにほぼ全て古典ファド。もちろんNuno d’Aguiarの名曲『Fado Bairro Alto』も。テンポの良いステージングで好感が持てました。
 ただ、Casa do Fadoに生まれる歓喜と悲しみが共存するファド独特の空気感や世界観を感じたい場合は物足りないかもしれません。上演時間は50分ほど。16ユーロ。写真はリンク先をご覧ください。

住所:Rua da Misericórdia 14,2º andar(3階)

 終演後ミーハーっぽくてどうかなと思いつつも、出演者が出てくるのを待ちました。ポルトガルではこういう場合「来ていたのに終わった後なんで挨拶をしてくれなかったんだ」と言われることがよくありますので。
 まずは伴奏隊。Fernando Silvaにこの後O Faiaで弾くのかと聞くと「そうだよ。来るの?」との回答。続いてAndré。今夜はこのあとCafé Lusoで歌うとのこと。明日はO Faia。なかなかの売れっ子具合で、友人としては嬉しいかぎり。

 その後時間が余ったので通りをふらふらしてからBairro Altoきっての名門O Faiaへ。改めて本日の出演者を確認すると、António Rochaは体調不良でお休みとのこと。残念ですがRicardo Ribeiroが出演するとのことなのでそれはそれは楽しみ。
 と、ここまで書いてアレですが、内容に関しては馬車博物館のコンサートと昨年のレポートをご参照下さい。

リスボンレポート 2013年6月 その2 【マエストロAntónio Rocha】

6月2日にファド博物館の来館者向けミニライブから国立馬車博物館での有名Casa do Fadoプレゼンライブシリーズのはしごで「最後の伝説」António Rochaのおっかけをしてきました。

過去にもいたるところで取り上げてきたAntónio Rochaは御年75歳にして、黄金時代のファドを今に伝える名ファディスタ。真のファディスタであり、真のEstilistaはもう彼しか残っていないと言われる人物です。
Estilistaとは、平たく言えば歌うたびに、そして一曲の中でも1番ごとにメロディーやニュアンスを変化させて歌えるファディスタのこと。本来のファドのスタイルですが、CDを聞いて学んだ世代には不可能な技術だとも言われています。

彼は私がファド博物館に留学していた2002年から2003年にかけて、ごく短い期間ですが斜め向かいのレッスン室で歌のレッスンを受け持っており、よくお世話になりました。Mauro Nevesの師匠でもあります。
6,7年ほど前に喉の手術を受けてからはさらにストイックな生活を送っているようで、この日もそういった一面が見られました。

17時ごろから3,4曲という予定で、16時前に楽屋入り。楽屋といってもいつものレッスン室。「私の声は夜用だから、まだまだ寝たままだよ」なんて言いつつ、おそらくルーティーンである独特なウォームアップに入ります。
ひとしきり終わって一息ついているところへ質問。

―――マエストロ、あなたの考えでは史上最良の伴奏者は誰ですか?
「そんなのわからないよ。ファディスタとの相性にもよるし」
―――では、あなたにとっては。
「これもわからないよ。そもそも伴奏者は毎回違うものだし、場所、時間、客、歌うファド、そのときのお互いの心理状況にもよるし、ファドは毎回違うものだから」

実に予想通りの回答ですが、予想通りなのと予想するだけでは大違いですので、確認できたことは収穫でした。そしてマエストロの口から飛び出す、共演経験のあるレジェンドの名前の数々。もちろん彼もレジェンドなわけですが。

ファド博物館でのミニライブは来館者ならだれでも自由に見ることができ、他にも日によってはNuno d’AguiarやMaria Amélia Proençaも出てくることのある企画です。落語で言えば桂米朝さんが出てくるようなものと言えばわかりやすいでしょうか。わかりにくいのか。

外で行われている屋外ライブのサウンドチェックの騒音を気にしつつ、まずはFado Maria Ritaに乗せて自作の詩”Procura Vã”を。続けてFado Pechincha、Fado Súplica。最後には騒音もあまり気になっていない様子でした。古典ファドを自在に歌いこなす能力はさすが。Fado SúplicaはAlfredo MarceneiroがFado Cufに乗せて歌ったファドそのものを表現した詩”Teoria do Fado”でした。

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解説:津森久美子さんがファド博物館の楽屋で2ショット写真を撮っていたので、提供していただきました。(C)オフィスフロール

ここから次の国立馬車博物館へはバスで1本。近くのバス停へ向かうとそこにはマエストロ。Mauro Nevesから彼は徹底してタクシーに乗らないと聞いていましたし、以前屋外ライブから地下鉄で移動しているのに鉢合わせたこともありますので意外ではなかったんですが、相変わらずだなあといったところ。

馬車博物館の展示スペースでは週代わりで大手のCasa do Fadoがプレゼンをする企画が行われています。その1週目がBairro Alto代表のO Faia。昨年のレポートでも取り扱った店です。チケット16ユーロは過去に行われてきたこの時期のファドのコンサートにしては決して安い価格ではありませんが、無形文化遺産登録の際に掲げた目標の一つ「Casa do Fado文化の再興」を考えれば、むやみやたらと無料や安価でライブを行うのではなく、きっちりと価値を示した上でプレゼンテーションを行うのは良い傾向ではないかと思います。

トップバッターはRicardo Ribeiro。今リスボンで最も油ののっている若手男性ファディスタです。巨体をゆすってステージへ上がる際に段を踏み外したり、スタンドからマイクを取るしぐさがコミカルで、その直後のMC「少しお話しますね。しゃべるのが好きなんで」といったところからも人柄が感じられました。
もちろん話す内容は店のプレゼンテーション。店の成り立ち(2012年のレポート参照)やBairro Alto地区の古くからの傾向などをうまくまとめて話していたように思います(私自身そこまでポルトガル語が達者じゃないので、わかったとこだけで)。
歌ったのは古典がメイン。間に「質朴の天才」João Ferreira-Rosaの名曲”Arraial”をはさんだ良質なステージでした。

4曲ほど歌って次の歌手を紹介。「偉大なファディスタであり、ファドの歴史でもある。そして真のEstilista」と呼び込まれたのはもちろんAntónio Rocha。パフォーマンスもかねて恐る恐る段差をおりるRicardo Ribeiroと、颯爽と登場するマエストロ。どちらも好感の持てるけれん味でした。

ここでもはじめに歌ったのはFado Maria RitaとFado Pechincha。しかし先ほどとは明らかに違う。そしてFado Versículo、Fado Manuel Mariaと続いたんですが、ファド博物館でもここでも曲目の並べ方が白眉。

古典ファドにはいくつか形式があるのですが、それらを続けて歌う際は同じ形式を続けて歌わないという暗黙の了解があります。このルールを知るファディスタが少なくなって久しいと言われますが、彼はこれを頑なに守っています。内容的には以下の通り。

Fado Maria Rita=sextilhas(7音節6行詩を歌うための曲)
Fado Pechincha=quadras(7音節4行詩を歌うための曲)
Fado Súplica=Decassílabos(10音節4行詩を歌うための曲)
Fado Versículo=Vercículos((7音節+3音節)4行詩を歌うための曲)
Fado Manuel Maria=(sextilhas(7音節6行詩を歌うための曲))

曲間のMCは「これは私の仕事ではない」とばかりに曲名以外ほとんどなし。4曲歌い終わると風のように去る。できる男にのみ許されるかっこ良さ。

続いてはAnita Guerreiro、そしてトリはもちろんLenita Gentil。彼女たちについては昨年書きましたのでそちらをご参照ください。トピックとしては

・Anita GuerreiroにBeatriz da conceiçãoと通づる自由さをみた。マイクを叩いて拍手したり手でヘッドを拭いたり手を動かしすぎてマイクが外れたり。そりゃ普段マイク使わないものね。
・Lenita Gentilが古典も古典Fado das Horasを歌う際には「マイクを使わず歌います」。これは彼女がコンサートものに出る際のお約束。前のほうの席にいたファンたちは一緒にその台詞を言っていました。

といったところ。各自のMCを含め、コンサートとしてとてもまとまっていたように感じました。
来週はSr.Vinhoとのこと。伴奏を我が兄Paulo Parreiraが務めるようなら行ってみようかなと思います。

1°(月本)

リスボンレポート2012年春 その7【その他】(最終回)

 最後に雑多なレポートを一つ。

 毎回リスボンへ行く理由は様々なんですが、もちろんプライベートの用事も合間合間に入れています。留学から10年が経とうとし、お世話になった方も数名鬼籍に入っていますので、お墓参りも大切な用件です。
 今回もいくつか共同墓地を回りましたが、行く度にカルチャーショックを受けます。日本のお葬式でも各宗派や各地方での作法が違って、無宗教の私としては面白いなあと思うのですが、親しみのある宗教が違うぶんお墓やお墓参りの意味合いも大きく違って興味深くさえあります。
 もちろん本で読んだり映像で見たりして知識や情報としては頭にあるのですが、実際に肌で感じるのとは少し違いがあります。
 ポルトガルへ何度も行かれたことのある方は、次回は一度共同墓地へ足をお運びになってみてはいかがでしょうか。
ベンフィカ共同墓地

Cemitério de Benfica
Estrada Arneiros Cemitério -, Lisboa
地下鉄 Colégio Militar/Luz駅より徒歩10分

 今回最も驚いたのは、頻繁に自転車を見かけたことでした。そもそも坂ばかりで、しかも石畳のリスボンに移動手段として自転車が適しているとはとても思えません。それゆえに今まで競技以外でほとんど自転車を目にしなかったのは理にかなったことでした。それが観光用のレンタサイクルができ、自転車止めが置かれ、また地元の若者も自転車で行き来していました。
 元々自転車競技の人気が高いヨーロッパにおいて近年の日本のような自転車ブームが改めて起こっているとは考えにくいところですので、いわゆる「エコ」と「健康」がキーワードかなというのが一応の推察です。
 先だってのレポートでもご紹介した、ポルトガル国内の各交通機関を網羅した非常に便利なサイトがあるのですが、そこでも移動で排出されるCO2の量を算出してくれます。そういった意識に対する心象は置いておくとして、日本よりも緯度の高い国がほとんどを占めるヨーロッパではシビアな問題なんだなと再確認しました。
Ciadoの自転車止め

 ポルトガル料理といえば何かとバカリャウ(干しだら)の料理が取り上げられがちですが、もちろんそればかり食べているわけではありませんし、海鮮ならタコやイカ、肉ならモツまでしっかり食べます。
 滞在中、朝食と夕飯は自炊することが多いのですが、ランチは地元の人も利用する食堂で採るのがいつものパターンです。ガイドブックに載っている立派なレストランでなくともおいしいお店はたくさんありますし、定食が安いのは万国共通のお約束。
 私が良く利用するのは地下鉄Avenida駅近くの「Tio PePé(ペペおじさん)」というお店。その名のとおり、店主のペペが切り盛りしているお昼だけの食堂です。最近は店に入っただけで日替わり定食と炭酸水のオーダーが通るようになり常連気分で嬉しいのですが、たまにビールやコーヒーが飲みたいときには、それが善意の行為なだけに困ってしまいます。ポルトガルではありがちですね。
 今回はファディスタの高柳たくちゃんの馴染みのお店にもお邪魔しました。それにしても、ポルトガルの食堂で飲む赤ワインは、なんであんなにやさしい味がするんでしょう。
ペペの店

 相手に対してどれだけ時間を使えるかが愛情の深さであるという昔の女子バレー日本代表監督の言葉に従い、リスボン滞在時はなるべく師であり「父」であるAntónio Parreiraと時間を過ごせるように努めています。
 いつもは昼にファド博物館でレッスンの手伝いや代行をするのですが、今回は著書の原稿締め切りが近いとのことで、掲載する楽譜作成を頼まれました。Parreiraはあの世代(65歳)のポルトガル人には珍しく楽譜の読み書きができ、過去にも古典ファドを楽譜にまとめた実績があります。その知識はリスボンに出てきた若いころ「バイオリンを弾く靴屋に習った」とのことで、のどかだったころのリスボンがなんとなく連想されます。
共著なう
 いつもは休みの日を利用して彼の実家であるAlentejoのSão Francisco da Serraという小さな村へ1泊か2泊でご一緒するのですが、今回は多忙で行けず。彼のお母さんのお墓参りがかなわなかったのは残念です。高血糖対策の散歩も田舎のグラウンドではなく夜の仕事前にCasa do Fadoの近所をぐるりと歩く形で。
 私自身は歩くのが好きなので散歩には喜んで同行しています。車の中で話すよりも歩きながらのほうが、ふとした疑問やアイデアを交換したりそれらを膨らませたりというサイクルがスムーズなので、私にとっても貴重な時間です。今回も、散歩しながら意見の交換をし、店の楽屋に戻ってそれを検証するといったことの繰り返しで見解を深めてゆきました。その結果、新たな疑問もどんどん生まれるわけですが、滞在時間に限りがありますので日本に持ち帰って整理してからメールや次回の滞在時に持ち越します。
 いくつかの話題が持ち越しになった際に、Parreiraはいつも日本がスペインぐらいの距離にあれば良いのにと言います。それはこちらも同じこと。心に実際の距離は関係ないなんて平気で言う人もいますが、やはりポルトガルは遠い。何かあった際にすぐ駆けつけられる距離ではありません。因果な道を選んだなあと思いながら帰りのリスボン空港へ向かうのが、恒例の旅の締めです。

文責:1°(月本一史)