リスボンレポート 2014年夏 その6【8/29 ファドとギターラ】(最終回)

実質最終日。パレイラは今深夜に出発だと思っていたようで「なんだ、明日の午後発ならまだ電話できるな」と話していました。

洗濯物を干して残った用事と荷造りをあれこれと。ひと通り片付けてからコメルシオ広場~カイス・ド・ソドレー間に完成した遊歩道へ散歩に行くことにしました。
ずっとどこかがリニューアルの工事中だったリスボン。初めて来た大学生のころにはロッシオ広場が工事の幕で囲まれていました。2002年までには地下鉄の青線がサンタ・アポローニアへ延びるはずが完成は2007年。コメルシオ広場から川に出る川岸の工事もなかなか終わらなかったし、数年前はそのコメルシオ広場が幕で覆われていました。
ようやく街全体のリニューアルがだいたい終わり、地下鉄が空港まで延び、公設市場もきれいに建て替えられ、今では川沿いに歩行者天国のような遊歩道ができています。

私が初めてリスボンに来たのは2000年のこと。それゆえに生前のアマーリアもリスボン万博も見ていません。しかしながらファド再興のプロジェクトによって生まれてきた若い奏者たちよりは少し上の世代です。
そういった狭間の世代に身を置きつつ古典曲や昔ながらのスタイルを専門にしているのは、外国人だからこそのことかもしれません。

夕方に預け物と預かり物の用事でVelho Páteo de Sant’Anaへ徒歩で往復。お別れの挨拶も含め1時間半ほど。小さなリスボンの街を上ったり下ったりしながらあちらへこちらへ。

最後の夜はおなじみ「ファドの学校」Fado Maior。日本のファド関係者のほとんどがお世話になったお店。ルイス・デ・カストロ翁と奥様の大ベテランファディスタ ジュリエッタ・エストレーラが経営するファド保守派の最右翼。今では金曜と土曜の夜にしか開けていません。店の詳細は過去のレポート「リスボンレポート2012年春 その5【Alfama】」をご参照ください。

同行のマウロ・ネーヴェスを紹介すると、ジュリエッタが「私たちのポルトガル語を変えてしまったブラジル人が日本でポルトガル語を教えているの?」と絡む。マウロもいやな顔をせず「そうですね。おっしゃる意味はわかります」といなしました。特に険悪な空気ではなく、挨拶がわりといったかんじ。私が昨日アニータ・ゲレイロと話したことを話題にしていたら、今度は「実はアニータは私がプロライセンスを取った際の後見人なのよ」と教えてくれました。独裁政権下ではプロのファディスタは国家資格が必要で、そのための試験に合格するか、特定のコンクールで優勝した場合にライセンスが与えられました。

左からFlorinda Maria、Anita Guerreiro、Julieta Estrela (Rainha das Cantadeirasコンクール 1955年)

左からFlorinda Maria、Anita Guerreiro、Julieta Estrela (Rainha das Cantadeirasコンクール 1955年)

その時の審査員が後見人になる場合が多くあったとのこと。ジュリエッタがコンクールに優勝したのは16歳のころ。その時の審査員がアニータ・ゲレイロで、18歳までは正式なライセンスが公布されないため、2年間は特別なライセンスで歌っていたそうです。
そして超有名曲Cheira a Lisboaはアニータがレヴィスタで歌って有名にしたとのエピソードがおまけで付いてきました。これまでルイスにもジュリエッタにも何度かロングインタビューをお願いしてきましたが、客としてこの店に来ても必ず知識が増えます。

Fado Maiorもギタリスタがバカンスで代役とのこと。この代役が代役とはいえないような人物、Bairro Altoにおける老舗中の老舗Adega Machadoで20年以上弾いていたジョアン・アウベルト翁でした。現役を引退したと聞いていたのですが、後で聞いたら9年半ぶりの現場復帰らしく、貴重な機会にめぐり合えた幸運を感じました。
店の端でルイスがアウベルト氏に「トゥミがいっしょに弾くので了解してくれ」と話してくれていたので私も話に混ざることに。「お前もギターラを弾くのか。最近はパソコンやインターネットで簡単に勉強できるからな」と言うアウベルト氏。ルイスが彼は日本で教則本も出しているし、ファドを理解している。古典曲もパレイラが教え込んでいるから大丈夫だとさらにフォローをしてくれました。アウベルト氏もそれを聞いて「パレイラが教え込んだ弟子なのか。わかった、後で弾きながら話そう」と一応の了解をしてくれました。久々に会ったごりごりの昔かたぎなファド関係者に緊張感を覚えつつわくわくもしました。

ヴィオリスタはおなじみのお爺さまカルロス・ロペス。私がBacalhau à Brazをだいたい食べ終わったころを見計らって「何か弾け」と声をかけてくる。もう少しで食べ終わるから待ってくれと言ったら、ちょうどアウベルト氏がトイレから戻ってきて準備がてらLisboa ao Entardecerを弾きはじめました。私も食事を切り上げて演奏に参加し、適当にセンカンドパートでハモりなんかを入れてみる。じっと自身の手元を見て弾いていたアウベルト氏が弾き終わって話しかけてきました。「俺が現役のころ、教えてくれるギタリスタなんかいなかったんだ。弾いている手を見ようとすると、見せないように横を向いたんだ。だから独学するしかなかった」よく聞く話ではあるのですが、そうなんですかと聞いてばかりも面白くないので「パレイラから、ジャイメ・サントスはそうだったと聞いています。ジュゼ・ヌネスも相手によっては。でもパレイラ自身はジュゼ・ヌネスからもカルヴァリーニョからもフレイタスからも機嫌よく教えてもらったそうですよ」と返すと「ああ、パレイラならそうかもしれないな。さて次はお前の番だ。何か変奏曲を弾いてみてくれ」と促してきました。師とも付き合いが長くなりいろいろわかっているつもりでしたが、他者から人物評を聞くとなんだか新鮮です。
何を弾くか迷っている時間もないので、曲名も言わずにアルマンディーニョの変奏曲をカルロスと顔で合図しながらアドリブを交えて弾きました。同じくアドリブでセカンドパートを弾くアウベルト氏。どうやらご一緒してOKのようです。

真ん中がJoão Alberto氏

真ん中がJoão Alberto氏

「最近の若いギタリスタたちは手元ばっかりチャカチャカしやがって、表現力がないし歌の伴奏になってねーんだ」そんなお決まりの愚痴をアウベルト氏が話したところでファドの時間が始まる。一人目は最近Parreirinha de Alfamaでも歌い始めたおなじみのクララ。イントロの間笑いかけてくれたので、ウィンクを返すとさらに笑っていました。

実際に伴奏をしてみてびっくり。アウベルト氏の手合いの発想が私とそっくり。いやもちろん私が彼に似ているという順序なのですが、手数も入れ込むフレーズの長さもおさめ方も、引き出しにあるお約束のフレーズもかなり似通っていて、3度か4度同じタイミングで全く同じフレーズを弾きました。ギターラがファドの伴奏をする際は全てアドリブで弾くので、これはかなり珍しいことです。パレイラも長くAdega Machadoで弾いた人なので、もしかしてAdega Machadoのオーナーである故アルマンド・マシャードの好む傾向があり、パレイラのそれがまた私に引き継がれたのかもしれません。

驚くとともに、この人は愚痴ではなく本当に最近の弾き手による伴奏が受け入れられないのだなと感じました。アウベルト氏はそのときの歌を聴きながら、そして聴いたうえでフレーズを繰り出します。もちろん自然に、そして自然なサイクルとして。

このときに頭の中で何かがしっくりいった気がしたのですが、日本に帰ってから振り返ってそれが何かわかりました。
私はアウベルト氏の言うように最近の若いギタリスタがダメだとは思っていません。歌の伴奏として的確なことを巧く弾いていると思っていますし、それぞれに表現力も持っていると思います。ただよくわからない違和感も覚えていました。
今回気づいたのは、おそらく若い弾き手たちはファドをアンサンブルと捉えているのではないかということでした。声を楽器と捉えて等価なファディスタ、ギターラ、ヴィオラによる完成されたアンサンブルを美しいと捉えているのであれば、従来のファドを良しとする人との間に感性の齟齬が生まれるのは理解できます。従来の考えであれば、ファドはあくまでも歌の音楽であり、枠をつくるのがヴィオラで、ギターラの役割はいろどりを添えることです。その中でそれぞれが個性をにじませつつ、伴奏隊は歌を聴いてそれに呼応したり加勢したりといった形で手合いをはさむ。私もこちら側の奏者です。ただ、こういった伴奏は今のリスボンではなかなか見られません。どちらが「正しい」というのではなく、現状がクリアに理解できた気がしました。
と同時に、私がリスボンで「最近見ない昔ながらのスタイルのギタリスタだね」とよく言われる理由がようやく自覚できました。今回も、ファディスタが歌を決める際のやり取りを含め、老若のヴィオリスタたちから同じような評価を受けました。

閑話休題。
演奏内でのやり取りの結果か、アウベルト氏がいろいろと話をしてくれるようになりました。私もこれ幸いとアルマンド・マシャードのエピソードを聞いてみることに。一流のヴィオリスタ兼バイシスタでもあったセニョール・マシャードと一緒に弾かれたんですかと聞いたら「彼はあくまでもオーナーだったからそんな機会はほとんどなかったよ。ときどき興がのったときに降りてきて弾いたぐらいかな」とのこと。マシャードの娘でもあり美しい古典ファドFado Maria Ritaの名前の由来にもなったMaria Rita Machadoがどんな人だったか聞いてみたら「すごく太った人だったよ」とだけ。アウベルト氏、もともとネガティブな人なのかもしれません。

そんなやりとりをしていたら、やたらと玄人っぽい中年の男女連れが入ってきて、ファディスタの待機するテーブルに座りました。どうやらルイスの知り合いのようです。ジュリエッタが私のところへ来て「次はトモコに歌ってもらおうかと思ったけど、ちょっとイレギュラーなことが起こったから少し待ってもらえるかしら」と耳元でささやいてゆきました。
やってきた二人、どうやら現場監督であるジュリエッタの予定になかったらしくしかも歌ってみたらあまりうまくなく、そのことをルイスに怒っていました。細かいところまで聞いていたマウロが「怒ってるねー。でもここのお店いいね。お母さんもすごく楽しい人だし」と状況を楽しんでいました。

次は先日Mesa de Fradesの休憩時間に道端でばったり会った青年ブルーノ。彼とも留学時代からの付き合い。あのころ彼はまだ10代だったんじゃなかったか。そのころからFado Maiorを手伝っていました。
最後にクララとFado Pechinchaの掛け合いをして、とても良い空気になって彼のステージは終わり。
休憩中、カルロスが「何か弾けよ。伴奏させろよ」と催促してきます。なので極力古い曲を。すると弾いた後から「今の、誰のなんて曲だっけ」と聞いてきます。表情を変えず「次は?」と促すアウベルト氏。
そんなこんなしていたらジュリエッタの番。古典曲を4曲歌う。その中には昨夜のアントーニオ・ローシャとは全く違った表現のFado Menorも。彼女も76歳になりましたが、場を支配する空気を持った歌は健在です。

最後に店のテーマソングを歌って終わり。またカルロスが何か弾けと催促してくれたので1曲弾いて私も席に戻りました。
すると男性5人組が店に入ってきて、入れたルイスに対してジュリエッタがまた渋い顔。彼らが歌わせてもらおうと来た客ならば長引くなと思って会計を頼みました。実際のところまだまだジュリエッタとルイスに聞きたいことがあったのですが、これも縁かなと思うことにして。
しかし支払う際に「まだ聞きたいことがいくつかあるのだけど、戻ってきていい?」と聞くと「いいわよ。15分後に来なさい」と承諾してくれました。

いったん店を出るときにアウベルト氏が「おい、さっき最後に弾いた変奏曲はなんて曲だ。ジャイメの曲じゃなかったか」と聞いてきたので「Nostalgiaです。おっしゃるとおりジャイメ・サントスの」と答えると、カルロスに「ほら、ジャイメの曲じゃないか」とこの日一番大きな声で話していました。

15分後、田中と店に戻る途中でアウベルト氏たちとすれ違う。さっき見なかった人もいるなと思ったら、今夜彼にギターラを貸していた人だとのこと。なんと引退したこの9年半の間に楽器も人に譲ってしまったそうです。「また来いよ、わかったな」と声をかけてくださって去ってゆきました。

深夜0時すぎ。ひととおり店を片付けたジュリエッタが「あら、トゥミが戻ってきてたなら言ってよ」とルイスに声をかけ、こちらとしては待望の議論開始。内容は中途半端に書くと誤解を生んでしまいかねないので、また改めて。
時計の針が2時をさすころ、だいたいの結論を見て解散。ジュリエッタが「そういえばパレイラの本持ってる?」と聞いてきたので「もちろん!サイン付をもらいましたよ」と答えるとルイスが「トゥミはパレイラの息子なんだから」と挟む。するとジュリエッタは「私もサイン入りを持っているわよ。パレイラの娘じゃないけれど」とまた冗談で締めくくりました(パレイラは67歳)。夜の仕事をしている人とはいえ、84歳と76歳になった夫妻がここまで付き合ってくれたことには感謝しかありません。

アパートに戻り、妻がもう寝ているので小声で先ほどの議論のまとめ。1週間の疲れがピークに達する中、脳が火照るような感覚をもちながら改めて論議。田中も「寝てらんないです。とにかくやらなきゃ」と言い、相当の刺激を受けた様子でした。

11年前、日本に帰る直前にパレイラが「ファドはもう俺たちの時代ではなく、お前や俺の息子たちの時代になった。さびしいけどそれでいい。お前がどんなファドを求めてゆくかはお前が決めればいい」と話しました。20年後私が誰かにそう言えるだけの環境が日本にあればと思いますし、作れたらと思います。

ドバイ周りの21時間後、日本に帰ってからパレイラに電話をすると「無事に帰ったのか。彼女たちもちゃんと一緒に帰ったか?途中でいい男と一緒に逃げられたんじゃないのか?」と笑っていました。


(文責:月本一史 写真:田中智子、Office data palette)